手の届く ものとも知れず でも望む ゆらりと揺れた 泡沫の夢

「ありゃ。月が、かげった?」
 こんな日は早く帰るに限ると、アパタイトは足を早めた。そんな彼の視界の端を、ひらりと薄紅色の花弁が横切っていく。
「散る時期には早いっていうのに、桜まで……おお、こわ」
 わざとらしく、おどけた風に言う彼は、実際に霊的存在など信じていない。だって、目に見えないものを、どう怖がれば良いのか、アパタイトにはわからなかった。彼がそういうオカルト方面を信じられず、茶化しているのにもかかわらず気にするのは、彼よりもむしろ彼の周囲が本気で心配しているからである。彼らには、アパタイトの周りに何かが見えている、らしい。
「んん?」
 不意に視界がくっきりと開けて、アパタイトは戸惑いのあまりに足を止めた。桜の花びらがふわり、紫色の羽織姿の青年に触れ、そして雪のように溶けて消えたのが、妙に鮮烈に艶かしく。そのあまりの衝撃に、アパタイトの脳裏から、その他の全てが消え失せた。それこそ、雪のように消えてしまった、桜の花びらのように。
「……君は」
 消えないんだね? 青年の問いかけの意味を理解する頃には、もう縫い付けられたかのように、アパタイトはその場から動けなくなっていた。蛇に睨まれた蛙であれば、まだ良かったのだろうか。魅入られ、惚けた締まりのない顔を、晒すよりは。
「ふふ、変な顔」
 青年は毒気を抜かれたかのように笑い、一気に空気が華やいだ。ハッと我に返ったアパタイトは、耳が熱くなっているのを感じ、ますますいたたまれない気持ちになる。
「アンタは……」
「俺? スギライト」
 スギライトはあっさりと名を明かし、ずいとアパタイトとの距離を詰める。月光の下で紫の瞳が煌めくのに落ち着かず、アパタイトは目を合わせないよう必死だ。
「やっぱり君は、平気なんだね」
 そんなアパタイトの努力など知ったことではないとばかりに彼の青い瞳を覗き込み、スギライトは満足気に微笑んだ。
「桜の君も、たまには粋なことをする……。でも、知らずにいた方が、俺たち二人のためだったかもね?」
「それは、どういうことだ? オレは、アンタに出逢っちゃいけなかったのか?」
 さっきまで視線を合わせないように頑張っていたことも忘れ、思わずスギライトを見つめるアパタイトの可愛らしさに、とうとうスギライトは吹き出した。
「ははっ! ……そうだよ、そう思わないか? 俺は君に出逢って、独りの寂しさを知ってしまった。君は俺に見つかって、もう平穏な生活なんて無理さ。まあ、増える分も、今までの分も、全部消えてしまうのだろうけれど」
 後半の言葉の意味が掴めず、アパタイトは眉根を寄せる。それすらも可愛らしいと、スギライトはご満悦な様子だ。
「君は知らないままの方が、きっと幸せさ。大丈夫、君の邪魔になるようなモノは、俺が消してあげるから」
「アンタ、意外と饒舌なのな」
 君にだけね、とスギライトは上機嫌に笑う。実際、彼に付き纏われるようになって、それが真実だったとアパタイトは悟るのであるが。
「だから、消えないでよね」
 その言葉の意味を知る日は、まだ遠く。