春の大型連休前・夕方

 連休前なので、連休中の予定を組もうとして、けれど地元ではどうしても落ち着けず。もう閉店しているかな、と思いながらも、足が向いたのは以前お邪魔した喫茶店フォレスタ。
 電車に揺られるだけでも、それなりに気分転換にはなったらしい。心持ち落ち着いた気分で、ぶらぶらと駅前の商店街を歩く。
 そこのコンビニの角を曲がって、ほら、あった。思わず頬を緩めていたら、見覚えのあるようなないような、すらりとした良い姿勢の袴男子が出てきて、もうこれだけでも今月分のご褒美だよね、とますますニマニマしてしまう。
 ちなみに今日は仕事帰りなので、普通(?)に洋服姿である。何せ職業上、常にマスクが欠かせないのを良いことに、化粧ひとつしていない野暮ったい眼鏡が私だ。
 袴のお兄さんは少し、怪訝そうな空気を纏ったけれど、それでも表情には一切出すことなく、私とすれ違っていった。入れ違いに覗き見た、喫茶店の店内は、やや混雑している気もする。うーん、と唸ったけれど、その時にはまたいつものウェイトレスさんに見つかっていた。毎回思うけれど、鋭い。
 テーブル席は満席で、初のカウンター席である。とても、とても緊張する。荷物籠どうぞ、と置いてもらったが、普段通り荷物が大きく、籠にはとても入りきりそうにない。どうせ、職場でも床に置いている荷物だ。リュックを椅子の下に置いて、少しだけ肩を回した。
「籠には入りませんでしたか」
 マスターさんに声を掛けられて、やっぱりイケボなので、挙動不審気味に答える。
「大きいし、重いし、普段から地面にも置いてる荷物ですので……。あっ、アイスコーヒーと、プリン、お願いします」
 動揺しすぎて、いつものカフェ・オ・レではなく、家での口癖そのままにアイスコーヒーを頼んでしまったと気付いたのは、目の前に、いつもよりも濃い色の珈琲が、アイスでカランと音を立てたとき。
 ブラック珈琲は、苦味と、それ以上の渋みが強くて、飲みきれないことも多いので、外では滅多に頼まない。なのに、今日はうっかりしてしまった。どうしよう、シロップを入れるべきか。思わずじっとグラスを見つめていて、ふと薫りがすることに気付いた。普段よりも、仄かに甘い薫りだ。
 花粉症のこともあり、春先は強い薫り以外は分からなかった。そろそろ、第一陣の花粉症が落ち着く頃ではある。この後は梅雨が近づくに連れ、次のアレルギー性鼻炎が来るので、今の薫りがわかる季節はとても貴重だった。
 カフェ・オ・レでは、ミルクが使われているから、こんなに繊細な薫りは掴みにくい。そっと、グラスに両手を添えて、改めて薫りを楽しむ。アイスコーヒーなのに、いや、だからこそ、控えめな薫りが愛おしい。
 飲めるかも、と思った。珍しくそう思えたから、シロップには手をつけず、グラスを口元で傾けた。
「……渋くない」
 溢れ出たのは本音以外のなにものでもなく、煎られた飲み物特有の芳醇な薫りの中に苦みと甘みがあり、渋みは本当に抑えられていて、飲みやすい。ブラックなのに、最後まで飲めてしまいそうだ。
「水出し珈琲は、エグ味や酸味も抑えられますからね」
 マスターさんの穏やかな声。
「甘い方がお好みかと思っていましたが……。お嬢さん、靴擦れはもう治りましたか?」
「甘いのは、そりゃ大好きですけど、このアイスコーヒーも飲みやすいです。わざわざ、水出しで淹れてるんですね。
 あ、えっと、靴ズレは、もう大丈夫です。あの時は、本当にお騒がせしてすみませんでした」
 それにしても、お嬢さん、ときた。お嬢さん、だって。咄嗟に俯いて顔を隠したけれど、きっと熱くなった耳までは隠せていない。
 とても落ち着いて小洒落た内装なのに、一度気になりだしたら、あれこれ興味深い。ウェイトレスさんの制服はフリルたっぷりで、着こなし次第ではメイドさんだし、テーブルクロスだって、これはきっと手作り品。手描きの絵がすごかったメニューに、紳士カフェも開けそうな、ダンディでイケボなマスターさんは私をお嬢さん、と自然な調子で呼んだ。
 ここはきっと、私にとって最高の隠れ家になる。私のオタクな活動よりももっと洗練されて芸術めいた文化が、落ち着いた雰囲気で楽しめる。しかも、珈琲も食事も美味しい。混雑さえしていなければ、ずっと入り浸りたい。
 友だちにも、しばらくは内緒にしていよう。喫茶店やカフェを巡ることを趣味とする友人たちを思い浮かべて、思う。私の友だちの中では少し一般人寄りで、キャピキャピするのが好きなメンバーたちだから。ここの空気を、壊してほしくない。
 今度は書きかけの小説の原稿作業をしても楽しそうだなぁ、と現実逃避も兼ねて考える。ああ、そうだ。元々、連休中にここでゆっくりできそうか、定休日や臨時休業日を調べに来たのだった。いつの間にか、流れに流されて、まったりと自分へのご褒美タイムみたいな感じになっているけれど。
 ふと伏せていた視線を少し戻したら、カウンターに飾られていた、小さな一輪挿しが目に入った。薄紅色で、花びらが何層にも重なっていて、とても綺麗。何の花かは分からないけれど、写真に撮るなりスケッチするなりして、帰ってから調べれば判るだろうか。
 いそいそと、リュックからミラーレス一眼カメラを出して、お花を撮る。単焦点レンズにマクロフィルターを装着して小物を撮るのが好きだ。でも、レンズそのものは色々持っている。だから、荷物がかさばる。ミラーレスのカメラの良いところは、無音で撮影できるところ。ここの空気を邪魔せずに撮影できるのが、本当に良い。