今日は珍しく、一人で、今まで行ったことのない喫茶店に、入った。
うっかり電車で寝過ごしてしまい、飛び起きて降りた駅が、知らない名前だった。どうせ目的のイベントにはもう間に合いそうにもないし、と思って、ちょっと休憩がてら改札を出たら、駅前を袴のカッコイイお兄さんが歩いていた。思わず二度見したけど、袴だった。間違いなく袴で、しかも問題なく着こなしていた。あれは絶対に普段から袴で過ごしていると見た。
奇しくも私も今日は袴と羽織で、履き慣れないブーツで疲れていたけれど、そのお兄さんがあまりに涼やかに歩いていくものだから、ついフラフラと、というかヨタヨタと、釣られて後からついていってしまった。ストーカーをしているという自覚も、その時はなくて、思えば絶対に怪しかったのに。
駅前の大通りは商店街なのか、道の両脇には店が立ち並んでいた。元は、参道だったのかもしれない。行手には、鳥居が見えたから。
お兄さんはコンビニの角をヒョイと曲がってしまい、私は途方にくれて、立ちすくんだ。我に帰ったのだとも言う。見知らぬ街で、赤の他人を追って、立派な迷子の誕生である。思い出したかのように足がジンジンと、靴ズレの痛みを訴えてくる。泣きたい気持ちのまま、未練がましくもチラッと角から伺うと、袴のお兄さんが少し先で、何かのお店に入っていったところだった。路地に出ている看板は、よく軽食店や喫茶店で見かけるような形だ。いや、それ以前に、道にテーブルセットが並んでいる。つまりあそこでは、休憩ができる。
喫茶店、だろうと分かる程度まで寄ってみたけれど、どうしよう。今更、なんだけれど、お兄さんには気付かれていただろう。どう考えても、ガチの不審者です、ありがとうございました。靴ズレの痛みもそろそろ限界だし、いよいよ涙が出るかと思ったその時。
「いらっしゃいませー」
ちょうど喫茶店から顔を出したウェイトレスさんと、目が合ってしまった。しかも、にこやかに挨拶されてしまった。つまりは、退路を断たれた。勿論、ただの私の被害妄想なんだけれど。
それにしても、背の高いウェイトレスさんだ。私だって女子ではそこそこ背の高い方なのに、軽々と超えられている気がする。下手したら、あの袴のお兄さんすら、超えているのかもしれない。ウェイトレスさんの向こうでは、カウンター席に袴のお兄さんが、こちらに背を向けて座っている。だから、逆に、逃げられなかった。
「一名様、テーブル席にご案内しまーす」
足を踏み入れた店内には、珈琲だろうか、落ち着いた薫りが漂っていた。好い薫りだ。お子様味覚なのでブラック珈琲は飲めないのだが、珈琲の薫りそのものは割と好きで、思わずうっとりしてしまう。
これで靴ズレの痛みが少しでも誤魔化されてくれないものだろうか。いや、やっぱり座るまで無理かな。せめて眉間に皺が寄っていないことを祈った。初めてのお店で、不機嫌を撒き散らしたくはない。もしも、よく知ったお店なら、靴ズレに絆創膏で処置もするが、その意味でも初のお店はハードルが何かと高かった。
メニューを渡してくれたウェイトレスさんが、じっとこちらを見ている、気がする。いやそれもきっと、私の気のせい。いや、もしかして……
「お客様、足、大丈夫ですか?」
目をグルグルさせていたら、普通に足のことに気付かれていた。どうして、とパニックに拍車が掛かる。
「あ、え、う」
椅子に座っていて、良かった。既に座っていたから、一気に腰が抜けて、へたりこんだのがバレずに済んだ。
「……靴ズレをしちゃっただけな、ですので」
動揺のあまり、丁寧語すらすっぽ抜けかける体たらく。耳が熱い。
やっぱり、と呟くウェイトレスさん。別の従業員さんが、救急箱を片手に早足で来てくれるのが、申し訳なさすぎる。
「あっ、ば、絆創膏は持ってますんで……!」
実は慣れない靴では一発で靴ズレを起こす、いわば常習犯なので、スマホケースに絆創膏を仕込んであるのだ。ただ問題は、そのスマホが今は、鞄の奥底に沈んでしまっていることで……。
荷物を漁ろうと慌てていると、更にカウンターからもマスターさんっぽいダンディなおじさまが出てきてしまった。
「一旦、その足を見ましょう。絆創膏で足りるなら良し、もし足りなければガーゼが必要でしょう?」
「……はい」
おじさまがあまりに落ち着いたイケボだったので、さっくりと言いくるめられてしまった単純は私です、はい。
果たして両足には、まあ私からすれば予想通りの惨状として、踵と足裏、親指の付け根にガッツリと、それぞれ絆創膏二枚分くらいの傷が三箇所ずつ、計六つも、できておりましたとさ。分かってましたとも、きっと見た目にもえげつないって。久々のブーツだったもの。
ウェイトレスさんが、顔を痛ましげに歪めながら、小声で叫ぶ。
「だいぶ重傷じゃん! これ、よく歩けたね⁉︎」
どうやら、接客が頭から吹っ飛ぶ程度には、衝撃的な状態だったようだ。いやもう本当に、騒ぎにしてしまってごめんなさいとしか言えない。
……あれ? マスターさんが、カウンターから、出てきた、よね?
ってことは、あの袴のお兄さんにも、気付かれた……?
どうやら、この時点で事態は、私のキャパシティをオーバーしてしまったらしい。
気付けば私は手当てされた足で、帰りの電車に呆然と座っていたのである。