13 世界は、壁の向こう側

 桜香おうこう懸命けんめいに、何も反応を返さなくなった俺の世話を焼くのを、壁を何枚もへだてたような向こうから認識していた。
 彼は俺に口移しで食事をらせ、俺を抱きしめながら寝る。寝る時間は猫らしく、昼間。壊れ物を扱うかのようにそっと腕に囲われているのを、今更だと思いながら、眺めていた。
「戻ってきてよ、にしき。戻ってこないと、また抱いちゃうよ?」
 夜な夜な、そんな感じのことを言っては俺の顔をめる。けれど実際には交尾せず、ただグリグリと俺の胸元に頭を擦り付けた後は、俺を腕の中に抱え直すだけだ。
 まあ、随分と甘やかされているなとは、感じている。これで好きとか愛してるとか言われたら、もう一回でもその言葉を聞く為に、自分で作ったその壁を壊してしまうだろうほどに。
 あれだけかしこかった桜香おうこうなら、ぐに気付くと思ったんだけどな。心を閉ざした俺の残した言葉さえ、ちゃんと考えてくれれば。
 そう思うのに、桜香おうこうかたくなに俺を口説くどかない。それはもう、何か理由があるのかと、かんぐりたくなるくらいに。
 ズキッと、体に痛みを感じた気がした。こういう時って、普通、胸がズキズキする筈なのに、おかしいな。ヘソの辺りが痛かったような……? ああ、ほら、また。
 痛みは段々と下っ腹に降りていき、そういえば今まで下痢したことがなかったなと壁の向こうでぼんやり思う。そのまま何となく、自分の腹を見下ろして。
 くらりと、感情が足元を崩されて、落ちていった。
 ああ、ちくしょう。桜香おうこうが俺の心を引きこもったままにしていた理由は、これか。
 ボテ腹、とまでは言わない。けれど、ふくらみがあって、中に確かに動きを感じる。
 考えるまでもなく、桜香おうこうの仔だ。だって、俺とそういうことをしたのは、桜香おうこうだけなのだから。
 そして、納得した。してしまった。
 抱かれるだけで心を閉ざした俺が、妊娠の事実に耐えられるとは、思われなかったのだろうと。まあ実際、感情の方は衝撃のあまりに凍結状態な感じだし。こうやって考察している仮初かりそめの理性だって、心が築いた壁があったからギリギリ耐えたんだし。
 それにしても、俺が、妊娠か。不思議な気持ちで、そっと腹をさすってみる。俺は男だから、子をはらむことなんてありえないって思ってたのにな。世の中は、不思議に満ち満ちている。
「……にしき?」
 俺が、久々に動いたからだろう。桜香おうこうが、俺の視線を追いかける。
 その気配が酷く動揺したのを、やっぱり他人事として、壁の向こうで感じ取った。
 下っ腹はいよいよ痛くて、多分、普段なら泣きわめいているくらいだけれど、そんな涙はもう、枯れ果てていて。
にしき
 だから、俺の手にすがり付いて、俺の名を呼ぶ桜香おうこうの声の必死さなんて、知ったことじゃなくて。
 ただ、さっきから寒いなぁと。あと、眠いなぁと。
 久しぶりに、何も余計なことを考えずに、感じずに、眠れそうだなと。
「寝ないで、にしき。もうちょっとだけ、頑張って」
 俺は何もこたえなかった。こたえるつもりもなかった。
「今度こそ、ちゃんと説明するから。起きてよ。ねえ」
 そんな声を出すくらいなら、さっさと、最初から、説明しておけば良かったんだ。伝えるのも億劫おっくうだし、視界はどんどん色褪いろあせていく。
 死ぬんだろうなと理性ではさとってみたけれど、いや本当に心とか感情とかが仕事を放棄ほうきしていて良かった。このまま、静かに去ることができそうだから。
 だからさ、こんな俺のことなんて、気に病むなよ? 桜香おうこう
 仮初かりそめの理性が強がるままに、意識を手放した。

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