02 満月の夜、桜隠し

 その日は桜がほぼ満開で、次の週末までに雨が降るようなら散ってしまうなぁと、大学の授業中も、どうでもいいことばかり考えていたのを覚えている。
 飼っていた猫のこうが行方不明になってから、半月ばかり経っていた。元は野良猫のらねここうだから、また野生に帰ったのかもしれない。でも、三年も世話をすれば、もう俺の方がこうのいない生活に耐えられなくなっていた。
 室内を確認、ベランダも確認、今日もいない。幸いにもしばらく好天が続いているけれど、いつまでもそんな天気にめぐまれるとも思えない。
「無事でいてくれよ……」
 どんなに俺がいのったところで、それが届くかどうかは別の問題だ。保健所にも警察にも迷い猫の問い合わせや必要な届出は提出しているし、あちこちに猫探してますのポスターも貼った。
 いつまでも大学の授業をサボる訳にもいかない。授業が終われば外は暗く、探しに行くのは難しかった。
 ふう、と、半月ですっかりくせになってしまっため息をいて、部屋に飾ってあるこうの写真を見る。右耳の先がV字にカットされているキジトラの(つまり、茶色地に縞模様しまもようのある)雄猫おすねこが、金色のでこちらを真っ直ぐに見据みすえている写真。
 また明日も早起きして、探しに行こう。そう考えていたら、玄関の方から猫の鳴く声と、カリカリと扉を引っくような音が、聞こえた。
 あわてていても、大きな足音が猫をおどろかせることは、忘れていなかった。そっと扉を開けると、果たして外には、俺の愛猫のこうがいた。
 喉元まで、こうの名前がり上がってくる。けれど名前を呼ぼうとした、まさにその瞬間、こう呆気あっけなくそのきびすを返した。
 思えば、その時にはもう、俺は彼の術中にハメられていたのだろう。
 ふらふらと、こうの後を追って。俺もまた、行方をくらませたことになった、はずだ。
 空には、こうと同じ黄金色の大きな満月。ハラリハラリと、花弁はなびらを散らす夜桜。全てに現実感が薄くて、そう、これはただ春の夜に見る胡蝶こちょうの夢……。俺を先導するこうの存在だけが、唯一確かなもの。こうの名前の由来にもなった、不思議と甘い香りが俺をいざない、まどわせ、くるわせた。
 いつの間にか、周りから音が消え。いつの間にか、周りには薄紅色の桜しか見えず。ついには、桜吹雪が視界をおおかくし。甘い香りは、ますます甘ったるくて。ぐらり、意識がらぐ。
 ハッと気が付けば、見知らぬ景色の中。木で建てられた街並み、和装っぽい人々が……人々が?
 猫のような耳や尻尾が出ているだけならば、まだコスプレなのだろうと思い込めた。脚の骨格から異なる、文字通りの猫獣人も闊歩かっぽしている中で、ジーンズにパーカーの俺だけが、ただの人間、異物としてこの上なく浮いていた。
 追っていたはずこうの姿も、いつの間にか見失っている。
こう……?」
 やっと呼べた名前は、心細さにふるえていた。その情けないひびきがいやで、無理矢理に深呼吸し、気持ちを落ち着ける。
 ここはどこだ。知らない場所だ。
 俺は誰だ。佐藤さとう にしき、二十一歳になる大学三年生。人間だ、と思ってしまったのは、周りに人間がいないから。
 呆然ぼうぜんとしていたら、不意に視界が回転した。背中から地面に引きずりたおされ、頭をかば余裕よゆうもなく打ち付ける。
何故なにゆえ、人間が此処ここにいる」
 喉元のどもとに添えられたつめ。気付かなかった。猫たちは、足音なく動けるのだと、改めて思い出したところでどうにもならない。
 俺を押したおした白の猫獣人は、そこで何かに気付いたようだった。
「なるほど、キサマが……。これはがせないな。屋敷やしきに連れて行くしかあるまい」

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