その病院、

「お前は、美味しくなさそうだ」
 まるで、周りの一切から切り離されたかのように、彼の声だけが僕の中に木霊した。
 闇色の髪に絡め取られ、爛々と輝く焔を映したような赤眼に射抜かれては、そう、蛇に睨まれた蛙のように動けない。変だ、彼の目はアッシュブルーだったはず。いやそもそも、人間の目はこんなに苛烈な色を出せない……
 僕は、そこで飛び起きた。

 外科医の朝は早い。他の病院は知らないが、ここでは外科部長による病棟回診は、午前八時には、終わっている。ついていこうと思うならば、当然、朝の七時には出勤していることになる。
 当院の外科は気さくな医師が多く、頼みごとをしやすくて良いと、詰所で看護師が話していた。内科医たちが大量にオーダーした血液検査が上手く採血できなくとも、外科の早朝回診で頼めば、誰かしらがサクッと済ませてくれる、と。小児科医ばりに血管確保が巧いのは、やはり手先の器用な外科医ならではなのだろうかと、他院から転職してきた看護師が感心していた。
 ああ、そうか。看護師たちは入れ替わりが激しいから、よっぽどの古参でもないと、ここの秘密は知らないのか。
 ラテン系の血を引いているだろうと噂される剽軽ひょうきんなワイルド系イケメンの部長と、ロマンスグレーの髪も艶やかなクールビューティーの副部長が、立ち止まって視線を交わした。外科医の大半は既に立ち止まっており、僕も彼等と同じく、その病室から漂う臭いに、表情を変えないよう必死だった。
 ……美味しくなさそうなのだ。
 つまりは、修羅場が決定した瞬間だった。当院は外科の係った患者さんの死亡率が低いことで有名だが、一応それにはそれなりの理由があるのだ。

「何を以て、緊急手術が必要だと判断したんですか」
 毎度いつものことながら、内科部長が食い下がった。
 当院一番の関門が、この内科部長である。何度も外科と対立するため耐性がついてきているのも、また厄介なポイントだ。
「何でって、そりゃあ先生、あのカンカンに張ったお腹と黄色い目を見ても分からんのかい?」
 我等が外科部長はいつもの通り、飄々と返す。
「あのまま置いておいたら、あの患者さん、死ぬよ」
「言うほど黄疸なんて、ありますか」
 なおも言い募る内科部長の白衣のポケットで、不意に着信音が鳴り響いた。院内用携帯に応答する内科部長の顔色が、怒りの赤から驚愕の青に変わるのを、僕はじっと見ていた。
「そんな、パニック値が……」
「今ならまだ内視鏡的にいけると思うんだがねぇ。内科部長は、開腹緊急オペの方が良かったかい?」
 ここぞとばかり説得にかかる外科部長の姿は、控えめに言っても悪魔の囁きをしているようにしか見えなかったが、がっくりと肩を落とす内科部長の姿が決着を物語る。
「まあ、任せておきな」
 外科部長はヒラリと身を翻し、そのまま猛烈な勢いで、看護師たちに指示を飛ばし始めた。副部長の方は、手術室に連絡を飛ばしているようだ。
 内科部長は困惑気な声を出した。
「一体うちの外科は、どんな観察眼を持っているんだ……」
 嗚呼やはり、また疑問を抱いている。催眠の効果が、もう薄れつつある。
 僕は、項垂れる内科部長の目を、下から覗き込んだ。

 緊急手術は昼前には患者さん、及びご家族さんの同意が得られ、昼過ぎからの出棟、夕方には無事に終わって、手術室では外科医たちが思い思いに寛いでいた。
「これだけ味見を我慢したんだから、良いボーナスを仕入れてくれよな!」
 一見クール系イケメンの外科副部長が、煙管の見た目をした電子煙草を燻らせつつ、バンバンと肩を叩いてくる。この人は、クールビューティーな見た目をしているが、実は気さくな性格で、言葉遣いもざっくばらんなのが素だ。
「良いボーナス……ですか」
「おうよっ! 美味しいパックとか、レアものパックとか」
「僕は甘いのが良いなぁ」
 のんびりと割り込んだのは外科部長で、こっちも本来の口調はこれくらいのほほんとしている。
「でも、輸血パックはタイミングがあると思うから、新しい結界でも良いよぉ」
「あー、僕としては結界の方が準備するの、楽ですね」
 新入りさんたちからはギョッとした視線を向けられるが、本当の話だ。そもそも、日光の影響を受けず、吸血鬼たちがしっかりと鏡に映っているかのように見えるこの病院、誰が建てたと思っている?
「輸血パックは善処しますが、ちょっと数に限りがありそうなので……」
「わかった、いつもの方法で割り振れば良いんだな?」
 副部長に頷くと、あちこちで外科医たちが結紮、すなわち糸結びの練習を始めた。ご馳走の配分は、外科の基礎的技術の上手な医師から選べるようにしているのだ。

 年々、猫被りが上達していくなぁと、外科部長ぼくは目を細めた。誰の、とは言わない。
 我らが始祖様は、その若き外見に違わず甘くていらっしゃる。生き難い吸血鬼と、生きたい人間と。どちらも幸せに共存できるよう、夢を見せようとしているのだから。