夢から始まる物語

 ふと、風が動いた気がして、うたたねから慌てて覚めた。
 ガタンゴトン。ガタンゴトン。
 乗っている電車は、目的地には未だ着かず、トンネルの中。車内に人はまばらで、私が座っている席の近くに誰かが立っていることもない。
 てっきり終着駅で起こされたかと思っていたのに、これはどういうことだろう?
 直前まで何か夢を見ていて、その内容で飛び起きたのかもしれない。けれど、生憎と私は夢の内容を覚えるのがとても苦手らしく、状況を確認している間に、先程まで夢を見ていたのかすら、すっかりあやふやになってしまった。
 楽しいオフ会の帰りだった。ネットを通じて知り合った、とても気の合う友だちと、大都会を満喫した一日だった。買い物にカラオケに食事に……とにかく目一杯遊んで、次に創作する予定のネタなんかも喋り合い、気持ちはとても満たされたのだけれども身体はくたくたで、それで帰りの電車でついつい微睡んでしまったのだ。
 膝に乗せていた荷物の重さがなんとなく気になって、抱えていた鞄に目を落とす。見覚えのない何かが目に飛び込んできて、ぎょっとしたあまり、思わず変な声が出るところだったのを必死で堪えた。
 鞄はそのままに、私の膝の上。その更に上に、くすんだ赤い色の……これは、本だろうか。
 誰かの忘れ物、や、もしくは落とし物、だろうか。車掌さん、或いは駅に着いてから、駅員さんに、届けておくべきものではありそうだ。
「違いますよ?」
 そっと囁くような声が聞こえて見回すも、やはり近くには誰もいない。この怪奇現象、さてはこれは。
 夢だ。
 うわあ、明晰夢なんて、久々ではなかろうか。実際には頻繁に見ているのかもしれない、でも覚えていない夢なんて、見ていないのと同じだ。
 そっと本に手を伸ばし、触れる。表紙のすべすべとした手触り、おそらくこれは革だろう。造詣が深くないので何の革かは判らないが、指先に吸い付くようなしっとりと心地好い滑らかさは、永遠に撫で続けていたいと思わせるほど。元は深紅色だったのだろうか、年月を感じさせるくすんだ赤い色も美しい。
 持ち上げてみると、両手に少しずっしりとした重さが掛かる。文庫本よりも一回りは大きく、厚みもそれなりにあることを考えれば当然か。ついでに、銀色の金具、というか留め具がついているともなれば、重くなければ嘘だろう。縁取りも、銀。装飾も、銀。これまた時代を感じさせるかのようにやや曇ってはいたが、幸いなことに錆はついていなかった。
 正直に言おう。アンティーク洋書っぽくて、大変好みである。赤い装丁ならば金の装飾でも似合う気はするが、銀もなかなかに渋くて良い。
 思わず漏れ出る感嘆の吐息。うっとりと本を撫で回していて、気付いた。
 この本のタイトルが、読めない。
 少なくともぱっと見、日本語や英語ではない。英語ではない、というか、アルファベットですらない。なのにほんのりと文字に見覚えがあるようなないような、この不思議な気持ちは何なのだろう。
 思い出した瞬間、身悶えた。ぱっと見は不思議言語だが、いや、これは。
 かつて自作した文字と、言語だ。いやいや、文字はともかく、言語の方は流石に完全自作ではないが。いわゆる、半架空言語というやつである。ベースが日本語だったか英語だったか、はたまたミックスでもさせたか、その辺りは記憶をひっくり返してみないことには、なんとも。文法は日本語で、単語は英語がベースだった、気がする。複雑にしすぎて、自分で発狂した覚えしかない。いや、構想を練っている間は楽しかった。実際にそれで文章を書こうとしたら、割と地獄だった。
 さすが、私の夢。まさかこんな所でこんな代物に出くわすとは。
 さて、それならば解読表があれば、この本のタイトルが読めるということになる。かつての創作物を常に持ち歩いているわけではないが、そこは現代の進歩した科学技術に感謝。ネットにつながる端末があれば、クラウドサービスに置いてある大体の創作物のバックアップが見られるはずだ。
 ガタンゴトン。ガタンゴトン。揺れる電車はトンネルを抜けただろうか。大都会ならともかく、そうでもなければトンネルの中では電波が途切れてしまう。
 窓の外をそっと覗き見ると、遠くの方に建物の灯が揺れていた。どうやら電車は、トンネルからは抜けたようだ。鞄の中から最近のデジタルお絵描きに使っているタブレットを取り出せば、それは無事にネットにつながった。
 タブレットの方にしたのは、解読表を読むのに画面が大きい方が良いだろうと思ったからだ。何せ、五十音はほぼ確実にシャッフルされている。アルファベットがシャッフルされている可能性すらある。一々画面を拡大移動しながら解読するのは、疲れそうだった。
 一文字一文字を追い、本のタイトルが類推できたのは、電車が最寄り駅に着く直前だった。聞き慣れた駅の名前に、慌てて荷物を全て引っ掴み、電車から飛び出す。走り去る電車を見送って、私は自分がこの謎めいた赤い本までをも持って電車を降りてしまったことに気付いた。
 いや、ここ、無人駅。しばし、呆然としてしまう。
 本を駅員さんに届けるには、次の電車を待たないといけない。しかし一方で、この本を落とし主に届けるのは不可能なんじゃないかという思いも、少しある。
 何せ、私が考えた半架空言語が使われているような本だ。よくよく考えれば、私がその言語で作品を発表したことは、なかったはずで。
 これが読めるのは、この世界では、私ただ一人だけ。本来ならば、書けるのも。
 では、この本は、誰が書いた?
「それは勿論、貴方ですよ?」
 まただ。囁き声、直ぐ近くから。駅のホームには、もう呆然と立ち尽くす私以外に、人影はないのに。
「『夢』なんでしょ、最後まで責任取って連れ帰ってくれなきゃ」
 恐る恐る、視線を赤い本に戻す。不可思議現象に、肩が跳ねた。むしろ悲鳴を上げず、本を放り出すこともしなかっただけ、褒めて欲しいと切に願う。
 銀糸の装飾が入った赤いロングコートを身に纏う、掌ですっぽりと覆い隠せそうなほど小さな体躯。理知的な輝きを煌めく赤色の瞳に宿し、指先で触ってみたくなるようなふわふわとした癖っ毛は白銀。
 本の上に立っていた、本の精霊とも呼べそうなその存在は、私と目が合って、嬉しそうに笑う。
「ふふっ、やっと逢えました。我がマスター」
 いつから世の中はファンタジーに首を突っ込んだのだろう。一瞬現実逃避に走りかけ、そういえば夢だったと我に返る。
 今まで創作でファンタジーな話ばかり考えていたから、現実のような夢を見ていてもファンタジーな方向に持って行こうとしているのだろうか、私の無意識は。
 それよりも、今、聞き捨てならない言葉が聞こえたような。
「マスター……?」
「この本は貴方が書いた、貴方の物だからですよ、マスター」
 にこにこと笑顔で言う本の精霊は、背に透明な翅を出現させ、ふわりと私の肩に乗り移った。
「さ、帰りましょう」
 耳元で聞く精霊の声は、落ち着いて耳に心地好い、中性的なアルト。
 何かが誤魔化されている気もしたが、私は深く追求せず、本を鞄にしまって帰途についた。夢なら覚めるだろうけれど、少し勿体ないなと思いながら。
 歩きながら思い返す、先程解読した本のタイトルを。
「夢から始まる物語、か」
 結局の所、この出会いはただ一時の夢ではなかったのだが、それはまた別の物語。